Topics教員インタビュー

専門家育成だけでなく、
市民リテラシー向上に向けて

京都大学 大学院医学研究科 田中司朗先生(臨床統計学)

田中先生は、これまでOCW* 「エレベータのブザーはなるか―大学生のための統計学入門―」「聴講コース 臨床研究者のための生物統計学」並びにKoALA** 「オオサンショウウオ先生の医療統計セミナー―臨床試験・メタアナリシス・疫学研究―」を配信されました。今回、その経験と合わせて、OCWとKoALAを制作された理由、今後の統計教育の展望について伺いました。

*OCW (OpenCourseWare):オンラインで正規講義、公開講義、国際会議などの講義ビデオや講義ノート、シラバス、小テスト等の教材が公開されるシステム。詳しくはこちらをご覧ください。
*KoALA (Kyoto University Online for Augmented Learning Activities):京都大学が提供するオンライン講義・教材・学習環境。詳しくはこちらをご覧ください。

プロフィール
京都大学大学院医学研究科臨床統計学 特定教授、博士(保健学)。
京都大学医学部附属病院特定助教、同大学医学研究科特定講師および准教授を経て、2017年2月より現職。
医師主導治験など多数の臨床試験に参画。日本計量生物学会より責任試験統計家として認定。京都大学大学院 医学研究科社会健康医学系専攻では、「臨床試験」、「臨床試験の統計的方法」を担当し、2015年にベストティーチャー賞を受賞。大学院の専門科目だけでなく、全学共通科目であるILASセミナーも担当している。

OCWとKoALA:臨床研究・統計の専門家育成のために

まず、OCW「エレベータのブザーはなるか―大学生のための統計学入門―」を制作された理由を教えてください。

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2つ理由がありました。まずは、統計教育やデータサイエンス教育の裾野を広げるというものです。どんな分野であれ、統計の知識が必要となることは多く、理想を言うなら誰しも基本的な知識を備えているに越したことはありません。
ただ、現実には教育を受ける場があまりないんですよね。最近になって学習指導要領が改訂されましたが、中学から高校では統計はほとんど扱われてきませんでしたし、大学の学部教育でも、授業は提供されていますが、未履修や理解がじゅうぶんでない学生はかなりいます。

統計教育やデータサイエンス教育に携わるものとしては、高校生や文系の大学生にも広く統計を知ってもらいたいという気持ちがありました。そこでOCWの存在をインターネット上で知り、より多くの人に関心をもってもらうために、「大学生のための統計学入門」を制作したんです。

もう1つの理由が、2018年4月、医学研究科社会健康医学系専攻内に新しく設置された「臨床統計家育成コース」を広く周知するというものです*。
「臨床統計家」とは、新薬開発や病気の治療法を改善する際に必要となる臨床研究のなかで、研究を設計したり統計解析を行う専門家のことです。「生物統計家」とも呼ばれています。臨床研究の際はそういった専門的な知識をもった統計家が最初から最後まで参加することが、質の高い研究のためには極めて重要となります。
しかし日本では、「臨床統計学」という学問分野自体新しく、臨床統計家の数も十分ではありません。本コースはこの臨床統計家を育てるための2年制の専門職学位課程で、修了時には国際的に認められた専門職学位である社会健康医学修士(Master of Public Health, MPH)が授与されます。

同様の教育プログラムは、他大学にもあるのですか。

そう多くないですね。本学の事例でいえば、国立研究開発法人日本医療研究開発機構 (AMED) の「生物統計家育成支援事業」の拠点に採択されたことで、コースの設置が決まりました。本事業に採択された大学としては、他に東京大学があります。

ただ、医学研究科にあえて統計を勉強しにくる人というのはどちらかというと珍しいんですよね。ですので、コースを開く際には、OCWやKoALA以外にも、TwitterやFacebook、その他いろいろな方法で情報発信や広報を行いました**。もし1人も来なかったらどうしようかと思ったのですが、お蔭様で昨年度の大学院入試では定員の倍以上の方に出願いただきました。
社会的なニーズからするとまだまだ人が足りていないので、本コースでの取り組みを通じて、今後も臨床統計家に対する認知度を高めていきたいと考えています。

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OCW「エレベータのブザーはなるか―大学生のための統計学入門―」

* 臨床統計家育成コースの概要や設立の背景については以下の論文を参照。
田中司朗・相田麗・今井匠・廣田誠子・森田智視・濱俊光・佐藤俊哉. 2018. 「臨床統計家育成の諸問題」『統計数理』第66巻, pp. 49-62.
** 「臨床統計家育成コース」で実施された情報発信や広報の施策一覧(2016〜2017年度)はこちら

教える対象や目的に合わせた教育を

KoALA「オオサンショウウオ先生の医療統計セミナー―臨床試験・メタアナリシス・疫学研究―」の方はどういった経緯で制作されることになったのですか。

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田中司朗・田中佐智子著. 『短期集中!オオサンショウウオ先生の医療統計セミナー:論文読解レベルアップ30』(羊土社、2016年)


医学論文の統計手法を解説するという本格的な内容でありながら、数式を極力用いない説明や初出キーワードの日英併記、オオサンショウウオ先生との質疑応答といった、読者の理解を促す配慮がなされている。

こちらについては、OCWの制作時にお世話になった高等教育研究開発推進センターの先生から、本学で始まった新しい取り組みとしてKoALAをご紹介いただき、制作してみることにしました。以前に医療統計の教科書として書いた『短期集中!オオサンショウウオ先生の医療統計セミナー:論文読解レベルアップ30』の内容を下敷きにしました。

もともとこの本は、臨床研究者や医療関係者に向けて執筆したもので、現在、大学院の教科書としても使っています。実際に存在する医薬品の臨床試験の結果を扱った論文を読みつつ、そこで用いられている統計手法とともに、実践的な知識を獲得してもらえるよう構成しています。

OCWが幅広い大学生に向けたものとしたら、KoALAは実際に医療統計の知識を必要としている研究者や医療関係者に向けたものといえます。

教える対象に応じて、OCWとKoALAを使い分けられたのですね。OCWとKoALA、それぞれで特徴に違いはありましたか。

はい。統計学は扱いたい内容や目的によって、用いられる知識や方法論が大きく異なる学問なんです。たとえば、文系の調査や解析に必要な統計手法と、医療研究や臨床試験で知っておかなければならない統計手法は異なるなど、分野ごとに専門分化していて、教える対象や目的に合わせて教育を行うことが肝要です。
そのため、まずOCWでは、高校の数学で統計について習わなかった大学生を想定して、講義の映像や資料を準備しました。OCWの場合、履修登録や課題の提出が要らないので、学習者にとっても取り組みやすいですよね。その点で初年次教育であったり、最先端の研究を含む一般向けの広いテーマを扱う講義や講演にOCWは向いていると思いますね。

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一方、KoALAで想定した対象は、論文を読む、あるいはデータを解析するといった具体的な必要性をもった専門性の高い人たちでした。ただ、そういった人を満足させようとすると、一定水準以上のコンテンツを準備する必要があります。また、KoALAの場合、課題を出したり、修了証を出すことも可能ですよね。

今回、修了証を出すことにした* のですが、そうなると全体像や達成目標を設定する必要が出てきます。一つのコースとしてオンライン教材を作ることを考えると、KoALAは、ある程度限定的な対象者に向けて、その人たちが知っておく必要があると思われる内容を教えるというのに向いているのかなと感じました。そのため、自分で書いた教科書がもし事前にあれば、制作はしやすくなるかもしれません。

* KoALAでは講義映像のみ、課題のみの提供なども可能です。修了証の発行については制作チームまでご相談ください。詳しくはこちら

対象に合わせた教育を考えると、KoALAは講義映像や問題のカスタマイズもできるし、その必要も出てくるということですね。

はい。現在KoALAやMOOCとして配信されている講義にもいろいろなバリエーションがあるのは、そこに理由があるんじゃないかと思います。

今回、多くの現職の医師の方が、先生のKoALAを受講されていましたね。振り返って、どう感じられていますか。

受講者には、本学の卒業生を含めて医療関係者が多く、現役の学生や卒業生、その知り合いの方にも受講してもらえるような良い教材になったという実感があります。

最新の知識が必要となる医師は数年に1回復習したり、新しい知識をつけたいというモチベーションの高い方が多いんです。ただ、これはどこの分野もそうだと思うんですけど、一度卒業して就職したら教育を受ける機会ってあまりないんですよね。
そういった方々に、復習の意味で見てもらったり、あるいは今まで学ばなかったことや別の領域のことを勉強してもらう機会となりました。広く話題を提供していることもあって、生涯教育、今風に言えばリメディアル教育的な使い方をしてもらえたのではないかと思います。

市民リテラシーの向上に向けて

先生は大学生や大学院生、専門家向けだけでなく、一般向けの統計教育の取り組みもなさっていますよね。どのようなことをされているか教えてください。

そうですね。たとえば、2016年に『放射線 必須データ32』という本を出版しました。
この本は、広く放射線の影響について関心のある読者を対象としたもので、放射線と突然変異がどういう関係にあるかや、実験データにはどういうものがあるかに始まり、病気との因果関係や、子供や胎児・妊婦のようにその影響を受けやすいと思われる集団への影響といった点について、データの読み方とともに解説するものです。

この本を出版した背景には、東日本大震災とその後に続く福島第一原子力発電所での事故がありました。当時、放射線の被害がどれくらい人間の生体に影響があるかが注目されましたよね。ただ、そういった影響は、統計の知識抜きでは測ることができませんし、また理解することもできません。そのため市民の側としても、国の政策に対して意見をもったり、あるいは健康問題に対処するためには統計学に関するある程度の知識が必要となります。

ただ、編集段階で実感したのは、一般の方にとってデータを読み解くのはやはり難しいということでした。初めて統計に触れる人でもわかるようにと意識しても、どうしても前提知識や情報の量が多くなってしまい、ある程度事前知識がないと難しいとの意見もありました。

そうなると、やはり、義務教育から大学までの教育が大事ですね。

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そうですね。ただ、義務教育ではデータをどう見なければならないかといった統計学の基礎はすっぽり抜けていますね。市民にとってこういった社会的な問題が起きたときに右往左往しない程度のデータや統計に関する知識はあった方がよくて、その一部は教育でちゃんと教えられるんじゃないかと思います。

データってすごく大事なものですから、日常生活でも困ることがないように一般の方にもデータやその処理の仕方に対する基礎的な知識をもってもらえるよう意識しています。可能ならば、研究者にとっては常識であるような基礎的な部分までは一般の方にも理解してもらえるよう、これからもさまざまな取り組みをおこなっていきたいですね。

義務教育でやっていないとすると、大学や大学院での教育はいよいよ重要となりますね。

そうですね。福島第一原発事故以降、大学生から社会人の学び直しまで幅広く教育を行っていくことが重要であると、一層感じるようになりました。専門家のための統計だけでなく、また、学生や大学院生にも限らない、市民にも開かれた教育や情報発信をどのように続けていけるかが今後の課題です。

臨床統計家の数を増やすという目標以上に、さらに視野の広い「使命感」のようなものを感じます。

いや、そんな大仰なものではないのですが、少しずつでもそういうことをしていったほうが未来が明るい気がしませんか(笑)。

教育や研究の発展のためにも面白さやスケール感を

ところで、変な質問かもしれませんが、先に紹介いただいた本やKoALAのタイトルにもある「オオサンショウウオ先生」の由来について教えてください。

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実は特段の由来はないんです(笑)。
ただ、この本の準備中、何かキャラクターみたいなものがあれば良いなと考えていました。そんなときに桂川を歩いていると、オオサンショウウオがいるのをたまたま見つけたんです。
帰って調べてみると、京都にはオオサンショウウオが多く棲息しているみたいですね。ただ、全国的にみたら希少種です。先ほどお話ししたように、臨床統計学の専門家は日本ではすごく少ないんですね。それで、京都っぽくまた希少種繋がりということもあって、「オオサンショウウオ先生」に決めました。

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抗悪性腫瘍薬「オプジーボ」の添付文書と承認根拠となったデータ。医療の進歩には統計学が欠かせない。

一般向けの取り組みの場合、「統計」という言葉だけでは敬遠されてしまう、という事情があります。そのため、「オオサンショウウオ」は裾野を広げるための、いわば「ゆるキャラ」です(笑)。一般市民や学生の関心をひく工夫をしなければ、発展はありません。たとえば医学における統計学の重要性を説明するときは、本学の山中伸弥先生によるiPS細胞の研究のことや、今年同じくノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑先生によるPD-1の研究と抗悪性腫瘍薬「オプジーボ」の話題を利用したりします。どちらも人を対象とした臨床試験が行われていて、臨床統計家が活躍しています。本の執筆やOCW、KoALAの配信といった活動も、こういった裾野を広げる取り組みの一環です。

なるほど。伝えたい対象に合わせた施策が必要ということですね。

はい。伝えたいものがあって、それに社会的なニーズがある以上、相手の気持ちになって伝え方を工夫することは重要だと思いますね。大学教員の発言がもつ社会的影響力の大きさはもちろん意識しています。ただ、そうであるからこそ、思いつきでないある程度整理された知識を伝えることが重要になってくると考えています。

やはり視野が広く、大きな展望をお持ちのように感じます(笑)。

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臨床統計家育成コースから、今後多くの臨床統計の専門家が育ってくれたら嬉しいと語る田中先生。背景は臨床統計学の研究室。掲示板に貼られたポスターにも、「ゆるキャラ」オオサンショウウオの図柄があしらわれていた。

いやいや(笑)。ただ、普段の生活を送っているとどうしても視野は狭くなりがちですので、大学という場もあって、面白さやスケールの大きさは意識するようにしています。そういったものがないと学生は反応しないですし、研究を発展させることも難しいですよね。新しい発想や自由というのは、大学の意義みたいなものとも関わってくるのではないかとも思っているんです。

その点は「京大らしさ」とも繋がってくるかもしれませんね。本日はお忙しい中どうもありがとうございました。

(聞き手:田口真奈/記事構成:河野亘/写真撮影:鈴木健雄/
インタビュー実施日:2018年10月17日/本記事公開日:2018年12月26日)